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MOON LIGHT / 儚憶










 真っ暗で冷たく、寒く、寂しい場所だった。
 いつも傍らにいる温みが、ない。



「もっくん? もっくんや〜い」



 辺りを見回してみるが、そこに探し者の姿はない。
 どこまでも広がる闇。
 肌に沁み込んで来る寒さ、冷たさ、寂しさ。



「もっくん……。もっくん!」



 突然不安になって、探し者の名を呼び続ける。

 いつもなら、一度呼べば絶対に返事を返してくれるのに──!

 何かの気配を感じ、後ろを振り返った。
 すると、そこに見えたのは背中を向けて佇む白い影。
 ほっと息を吐き、影に向かって歩き出す。



「もっくん……。いるなら返事ぐらいしろよ」



 またどこかへ行ってしまったのかと思った。
 折角帰って来てくれたのに、手も声も、何も届かない所へ行ってしまったのかと……。

 しかし白い影は一度振り返ると、再び背を向けて歩き出してしまった。



「もっくん? 待ってよ、もっくん」



 呼びかけても待ってくれない。
 嫌な焦燥感が襲ってくる。

 追いかけても追いかけても、一向に追いつけない。

 暫くそうやって追いかけている内に、白い影の向こうに二つの影を見つけた。


 祖父と、大切な少女。



「じい様。彰子……」



 二人は白い影を出迎えると、そのまま背中を向けて一緒に歩き出してしまう。



「ま……待ってよ! もっくん! じい様! 彰子!」



 走っても走っても、歩いているだけの彼らに追いつけない。
 走っているのに。こんなにも懸命に走っているのに。



「もっくん! じい様! 彰子!!」



 追いつけない。行ってしまう。自分一人残して、みんな去ってしまう。



「紅蓮──ッ!!」










◆  ◆  ◆










 少年は、単一枚でじっとそこに立っていた。
 戸惑いと、疑問と、侘しさを内包したような瞳。



「昌浩ーーーっ!!」



 突然高い声が聞こえ、少年は何かに蹴飛ばされた。
 「わっ」と声を上げ、何とか踏み止まって振り返る。

 そこには、白い物の怪がいた。

 その瞳は夕日を切り抜いてそこにはめ込んだかのような色をしており、幾分かの怒りが込められていた。



「お前なあ! いくら風邪が治ったからって、そんな薄着で外に出ていいわけないだろ! さっさと戻るぞ!」



 物の怪はそう憤慨して、少年に背を向ける。
 ……が、少年はいつものように反論することも、物の怪の後について行くこともしなかった。
 少年が付いてくる気配を感じないことに気付き、物の怪は振り返る。



「……昌浩?」



 物の怪が少年を呼ぶと、少年は眉を八の字に下げ、弱々しげに微笑んだ。



「……きみは、誰?」


「…………なん……だと?」



 それは、その少年の口から放たれていい言葉ではなかった。




















「晴明!」



 パンッ、と荒々しく襖を開けた物の怪は、その部屋の主の名を口にした。



「どうした、紅蓮。そんなに慌てて」



 答えたのは老人だ。稀代の陰陽師であり、物の怪の本性である火将騰蛇に『紅蓮』の名を与えた十二神将の主、安倍晴明。
 晴明の相手をする為に顕現をしていた勾陣と六合も物の怪を見やる。



「昌浩が……!」



 先をどう説明すればいいのか分からず、物の怪はそう言うしかなかった。
 晴明の眼が細められる。



「昌浩が、どうした」


「…………あの……」



 物の怪がなんと答えようかとあぐねていると、そこに昌浩が入ってきた。
 その様子はおどおどとしており、まるで初めて来た家に入ってくるような印象を受ける。
 そんな末孫の様子がおかしいとは感じつつも、晴明は昌浩に訊ねる。



「どうした、昌浩」


「…………あなたは……、誰ですか……?」


「なに……?」



 思わず剣呑に目を細める晴明に、昌浩はビクリと体を竦める。
 物の怪の方へ視線を投じると、物の怪は真剣な眼差しで頷いた。


 稀代の陰陽師安倍晴明の末孫安倍昌浩は、全ての記憶を失っていたのだ……。




















 晴明の部屋は現在、大きな神気が溢れ返っていた。

 十二神将の十一柱が顕現したとなれば、それも当然。
 晴明が神将達の神気を外へ出さないよう結界を張っていれば、それは尚更だった。

 物の怪も本性を現し、なるべく太陰や玄武に影響を及ぼさないように一線を引き、二人から最も遠い襖の近くへ腰を下ろしていた。
 昌浩は自分の部屋におり、事情を説明された彰子が付き添っている。



「さて……。問題は、なぜ昌浩の記憶が消えたかだのう。……紅蓮。思い当たることはないのか?」


「ない。つい先日まで風邪を引いてはいたが、記憶が無くなるほどの何かとなると、特には……」



 誰の眼から見ても心配げに意気消沈している紅蓮は、己の記憶を限界まで引き出しながら答えた。



「……風邪を引いているときは、まだ記憶があったのか?」


「ああ。勾も見舞いに来ただろう」



 勾陣からの質問に答えると、勾陣は「そうだな……」と頷いた。

 昌浩が風邪で寝込んでいる時、勾陣や六合、太陰、そしていつも太陰に引きずられている玄武辺りは、よく昌浩の部屋に行っていた。
 そのときは確かに、風邪で辛そうではあったものの、四人のことをちゃんと識別できていたし、物の怪の言葉に反論もした。
 あの時点では、昌浩は確かに昌浩だったのだ。



「じゃあ、昌浩は昨夜寝て、今朝起きるまでに記憶を無くしたってこと?」


「そういうことになるな」



 太陰の言葉に玄武が答えると、太陰は「う〜ん」と唸ってしまった。
 しかし、唸ったところでどうしようもない。
 昌浩と仲がよくても、常に共にいるわけではないのだから。



「騰蛇。昨夜の昌浩の様子はどうだったんだ」



 朱雀に問われ、紅蓮は昨夜のことを思い出す。



「昨夜、俺は昌浩の近くにいなかった。晴明に呼ばれてこの部屋にいたからな。遅くまで話をして、結局この部屋で一夜を明かした……」


「そうだったな。しかし紅蓮。お前は一度、昌浩の部屋へ行かなかったか?」


「ああ。昌浩が、俺を呼んだ気がしてな。だが、部屋へ行ったら昌浩は寝ていて、気のせいだと思ってここに戻ったんだが……」


「うっそー! 信じらんなーい!」



 紅蓮の言葉が終わるか否かに、太陰の甲高い声が響いた。
 隣の玄武は迷惑そうに顔を顰める。



「……何がだ」


「う……」



 太陰が甲高い声を出したのは、思わずの勢いがあったのだろう。
 昌浩に逢って丸くなったとはいえ、紅蓮の瞳に見据えられた太陰は僅かに身を竦めた。

 そんな太陰の様子に、紅蓮は太陰から目を逸らし、勾陣の腕を軽く叩く。
 勾陣は一度紅蓮の横顔を見て、太陰に目を移した。



「どういう意味だ、太陰?」


「だ、だって、騰蛇が昌浩の事で勘違いするなんて信じられないわよ。いつだって、昌浩が疲れてることに一番に気付くのは騰蛇だったじゃない。その騰蛇が昌浩に関することで気のせいだなんて、あり得ないわ」



 太陰は腕を組み、うんうんと何度も頷いた。
 他の神将数名や、晴明も頷く。



「確かに、太陰の言うことも一理あるのう」


「だが、昌浩は本当に寝ていた。それは確かだ」


「……確かめたのか?」


「まあ……、昌浩が怒りそうなことを、いくつか……」



 紅蓮がそう言うのであれば、昌浩が寝ていたのは確かだろう。それも、熟睡。

 ともすれば晴明よりも長く昌浩の事を見ている紅蓮は、昌浩が怒る壺や喜ぶ壺を熟知している。
 その紅蓮が昌浩の怒りそうなことをいくつかしたなら、寝たふりだったり半覚醒状態だったらまず間違いなく反論か反撃をしてくるに違いない。



「……寝ている間に何かの夢を見たとあれば、我らの計り知れるところにはないのではないか?」



 玄武の言葉に、「それもそうだ」と頷いてしまう。
 いくら何でも人の夢の中に入り込むことはできないし、よしんばできたとしても、その夢はすでに終わっている。



「……記憶が戻るような術はないのか……」


「あるにはあるが……、出来れば使いたくない……」


「………………」


「しばらく様子を見て、それから決めるとしよう。自然と思い出すかもしれんからの」


「………………」



 それで、その場はお開きとなった。




















 昌浩の部屋には、なんとも言えない沈黙が降りていた。

 茵の上に昌浩が座り、彰子はその傍らにある円座の上に座っている。
 昌浩が記憶を失ってしまったと聞いて、彰子はどう声をかけていいのかわからなかった。
 「覚えてる?」なんて訊いてしまったその日には、昌浩に大きな罪悪感を植え込むことになるだろう。
 記憶を失っていてもそういう根源は変わっていないと、彰子はなぜだか断言できた。



「……あの」


「え、なに?」


「……きみは?」



 いくら記憶を失っているとは言っても、辛かった。
 しかし彰子はそんな辛さを億尾にも出さず、柔らかに微笑む。



「彰子よ。わけあって安倍邸に住んでるの」


「じゃあ、俺のこと、知ってるんだ?」


「ええ、昌浩。あなたも心のどこかでは、きっと私のことを知ってるわ」


「…ごめん」


「なぜ謝るの? 昌浩はなにも悪いことなんてしてないわ」


「俺、きみを覚えていない……」



 申し訳なさそうに目を伏せる昌浩を見ると、涙が溢れそうになる。
 だが、それをぐっと堪え、彰子は昌浩の頬をその手で挟んだ。

 まだ会って少ししか経っていなかったころ、昌浩だけが彰子に迫る異邦の化け物に気付き、退治してくれたあの時。
 『晴明の孫』だと言われるのが嫌だという意思を見せてきた昌浩に『一の姫』と呼ばれるのが嫌で、彰子と呼ぶように言い聞かせた。

 あの時のように、真摯な目を昌浩の目と合わせる。



「悪いと思ってるなら、『きみ』なんて呼ばないで。私の名は彰子よ、昌浩」


「あき…こ……」



 あの時と同じ答えに彰子は微笑み、「ええ」と頷いた。
 つられるように、昌浩も微笑む。



「それじゃあ……、あの、白い生き物、は?」


「もっくんの事?」


「もっくん……っていうんだ」


「ええ、物の怪のもっくん。昌浩がそう呼び出したんですって」


「そう……」



 昌浩は、悲しげな笑みを見せた。そんな顔は見たくない彰子だが、仕方がないとも思う。
 彰子は記憶喪失になったことがないが、きっと、記憶が無いというのは孤独なのではないかと思うから。



「おう、彰子。どうだ?」



 そこに、変化した白い物の怪がやって来た。



「……もっくん」



 昌浩が呟くようにそう言い、物の怪が目を瞠る。



「私が教えたの。物の怪のもっくんって」


「ああ……、そうか」



 一瞬、記憶が戻ったのかと思ったが、それほど甘くはないということか。
 そして、そう言えば彰子は物の怪が騰蛇だということも、紅蓮という名を持っていることも知らなかったことに思い当たった。

 とりあえず、記憶のない昌浩には見えない至宝である名を教えることはすまいと、物の怪は思った。

 教えてもいないその名を呼んだとき。それが昌浩の記憶が戻るときだ。
 ぽてぽてと歩き、彰子の膝の上に乗る。



「昌浩。記憶の無い今の状態で、なにか残っている印象はないか?」


「え……」


「直感で、断片的でもいい。なにかないか?」



 言われ、昌浩は視線を落として考え込む。
 物の怪と彰子は、そんな昌浩が何かを言い出すのを根気強く待っていた。
 昌浩がわからないことでも、言われれば物の怪や彰子にわかることがあるかもしれない。

 そうすれば、そこからなにか思い出せるかも……。



「…………寂しい……」


「寂しい?」


「冷たいんだ……。寒くて、暗くて……、寂しい……。温かい筈なのに……」



 わからなかった。やはりというべきか、具体的なものはなにもない。
 僅かに落胆の色を見せ、物の怪は昌浩に声をかけた。



「わかった。昌浩、もう寝とけ。色々疲れてるはずだ」



 つい先日まで風邪だったし、記憶をなくしたことで、精神的にも疲れているだろう。

 物の怪に肩を押されて寝かされ、上に薄い衣を掛けられた。
 目を瞬かせる昌浩に、物の怪が声をかける。



「眠れ。記憶はゆっくり取り戻していけばいい」


「うん……。ありがと………」



 昌浩は目を閉じると、すぐに寝入ってしまった。
 穏やかな寝息が聞こえ、一先ず息を吐く物の怪と彰子。



「……昌浩、思い出してくれるかしら……」


「俺たちが諦めなければ、きっと思い出す。信じろ、彰子」


「ええ……」










◆  ◆  ◆










「ああ、騰蛇殿。ちょうどいいところに」



 廊下を歩いているところを後ろから呼び止められ、物の怪は振り返った。
 振り返った先には、ちょうど部屋から出てきた晴明の息子、安倍吉昌がいた。



「ん? なんだ、吉昌」


「昌浩の事ですが……、記憶が無いというのは……」


「……本当だ。いくら晴明でも、こんな性質の悪い冗談は言わん」


「そうですか……」



 恐らくは晴明に教えられたのだろうが、いかんせん、今までの行いがゆえに、晴明は実の息子にすら快く信じてもらえないらしい。
 心の中で苦笑して、物の怪は吉昌を見上げた。



「心配するな。きっと、時間が思い出させてくれる」


「だといいのですが……」



 そう思いたい。しかし、もしもこのまま思い出すこともなく一生を過ごすことになってしまったら。
 そんな不安はいつでも付き纏う。
 信じなければいけないと、心の中では分かっていても……。



「憶えられているのが当然だというのに、それが当然ではなくなったとき。それがこんなにも辛いとは……」


「……そうだな」



 ────あの時、この命と引き換えにお前のことを忘れてしまった時、お前もこうだったのか……?


 物の怪は……、紅蓮は、昌浩のことを一時的にでも忘れてしまったことがあった。
 それを知っているのは、紅蓮と昌浩、他の十二神将、後は、昌浩の兄である安倍成親と、晴明と、今は亡き晴明の妻である若菜くらいのものだ。

 ゆえに、吉昌はそのことを知らない。
 知らないから、物の怪の前でその辛さを口にできるのだ。

 物の怪もまた、吉昌が知らないことがわかっているから、ただ相槌を打つ。
 その心の底にある痛みをひた隠しながら。



「それとも、全員のことを忘れているからこそ、この程度で済んでいるのかもしれませんね…。これでたった一人のことだけを忘れているとあれば、忘れられた一人はどれほど辛いことか……」



 ずきりと。
 物の怪の心は痛みを訴えた。

 紅蓮は昌浩のことだけを忘れた。

 晴明のことも、他の十二神将のことも、吉昌や成親たちのことも憶えていたのに。記憶が過去に、昌浩がまだ生まれていなかったころに立ち上ったかのように、昌浩のことだけを忘れた。
 忘れてはいけなかったのに、そうして紅蓮は昌浩に痛みを与えた。紅蓮自身は、そう思っている。

 他の物のことは憶えているのに、特定の者のことだけを憶えていない。
 その辛さは、一体どれほどの痛みを有していたのか。



「そう……だな……」



 ────ならば俺は、どれほどの痛みをあの子に与えてしまったのだろう。

 あの子のことだけを忘れ、全て思い出した時、あの子は今までと同じように微笑みかけてくれた。
 あの微笑みが、どれだけこの心を傷付け、それ以上に癒してくれたことか──。



「今、昌浩は?」


「自室だ。彰子と六合、太陰がついている」


「そうですか。私も少し、あの子のところへ行って参りますので」


「ああ。俺は晴明のところへ行ってくる」


「では、後ほど」



 吉昌が去って行く後ろ姿を見詰め、廊下の角にその姿が見えなくなってから、物の怪は誰ともなく呟いた。



「それなら、あいつはどんな痛みを背負っていたんだ……」


「……それはあれにしかわからんことだ」



 返ってこないはずだったそれに答えたのは、いつの間にかやってきていた晴明。
 物の怪は振り返らず、言葉を続けた。



「これが俺への罰だというなら、俺のことだけを忘れればよかったのに……」




















 部屋の外の軒で、昌浩と彰子、六合、太陰の四人は、他愛もない談笑を交わしていた。
 とは言っても、六合は口数が少ないので、昌浩と彰子と太陰の三人での談笑と言ってもあまり変わりない。
 いつも太陰に引き摺られている玄武は、晴明からの命を受け、安倍邸にいない。



「ねえ、昌浩。貴船に行かない?」


「貴船?」


「いい提案だわ、彰子姫。行きましょうよ、昌浩。私が風に乗せてってあげる」


「え……」



 彰子の提案に同意した太陰の言葉に、昌浩は声を漏らした。
 それに柳眉を動かす六合だったが、無言で事の成り行きを見詰める。



「ん? なによ、昌浩」


「え、あ……、いや、なんか嫌な予感が……」


「それって……」



 昌浩は一度、太陰の風に乗ったことがあった。
 一緒に乗った六合はけろりとしていたが、昌浩と玄武は結構な気分の悪さを味わった。
 その時、太陰の風には二度と乗るまいと誓ったのだが。



「なんでだろ。ねえ、もっ……」



 振り返り、その言葉は途中で止まった。
 そこにいる筈の白い姿は、そこにはない。
 物の怪自身が「晴明の所に言ってくる」と言い残して出て行き、それは昌浩も聞いていたはずなのに。

 なのに、なぜ振り返ったのか。物の怪を呼ぼうとしたのか。



「……昌浩?」


「なんで俺、もっくんを呼ぼうとしたんだろう……」


「……あれは、いつもお前のそばにいた。太陰の荒々しい風も、お前は一度、乗ったことがある」


「荒々しいってどういう意味よっ、六合!」



 突っかかってくる太陰を黙殺する。

 昌浩は、六合に言われた事に考え込む。
 いつも側にいた。それなら、あの夢の寂しさは、冷たさは、物の怪がいなかったからだろうか。
 事実、記憶なくして起きたとき、物の怪の姿はなかった。



「昌浩」


「えっ、あ、えっと……、父上……」



 吉昌から声を掛けられ、昌浩は顔を上げた。
 戸惑いつつの言葉に思わず苦笑し、吉昌は手に持っていた包みを昌浩と彰子の間に置く。



「露樹が作った柏餅だ。彰子様も六合殿も、太陰殿もどうぞ」


「ありがとうございます、吉昌様」


「気が利くじゃない、吉昌。食べましょ。はい、六合」



 手を伸ばしても柏餅のある所に届かない六合に、太陰が手渡す。
 思案を中断させられた昌浩も、それに関してなんの違和感も抱かず、柏餅を口に入れる。



「それで、今はなんの話を?」


「みんなで貴船に行こうかって話よ」


「貴船ですか……。それなら、車を用意させましょうか? 太陰殿の風は、さすがに……」


「吉昌までそういうこと言うの〜!?」



 太陰に不満気な表情を向けられ、苦笑する吉昌。
 しかし、本当のことなのだから仕方がない。
 そんな様子を眺めながら、昌浩はぽつりと呟いた。



「じゃあ、車之輔に頼もうか……」


「えっ?」


「昌浩、思い出したのッ!?」



 彰子と太陰に詰め寄られ、昌浩は思わず身を引く。
 吉昌は車之輔を知らないが、六合も僅かに目を瞠っていた。



「あ……、いや、思い出したんじゃなくて、覚えてる……。車之輔……、俺の、式」



 初めて会った時は、陰陽師である昌浩に鉢合わせ、思わず逃げ出した車之輔。
 条件反射にそれを追いかけ、追いついてみれば、車之輔はなんの害もない、気弱な心優しい妖だった。
 そんな姿に苦笑してその場は逃がし、その後で色々世話になって、そんなお礼の意を含め、昌浩の式に下したのだが……。



 ────昌浩、こんな奴は祓ってしまえっ!



「……え?」



 そういえばあの時、そう言って憤慨していた奴がいなかったか?
 恐ろしい顔を持っているのに気弱で大人しい車之輔に、妖としての気概が足りないと、そんなどうでもいいようなことで怒っていた奴がいなかったか?
 思い出せない。なぜだろう。その姿に苦笑した。それは覚えているのに……。



「お〜い、昌浩〜」



 廊下の向こうから、物の怪の声が聞こえた。
 全員がそちらに目を向けると、ぽてぽてと歩いてくる物の怪がいる。
 その一瞬で昌浩はなにを考えていたのか忘れてしまったが、それに関してなんびを不思議がることもなかった。

 彰子の頭に飛び乗り、物の怪は柏餅に目がいく。



「お。柏餅か?」


「ああ、はい。露樹が作りまして」


「露樹がか。そりゃあ美味いんだろうなぁ」


「はい。もっくんも食べたら?」


「おう、すまんな、彰子」



 彰子が柏餅を一つ取り出したため、物の怪は彰子の頭から降りて膝に座り、柏餅を受け取る。
 そして柏餅に齧り付く物の怪を見て、太陰は六合の耳に口を寄せ、小声で訴えた。



「あれがあの騰蛇だなんて、やっぱり絶対に嘘よ! 絶対、絶対、絶対に、嘘!!」


「……諦めろ、太陰」


「こらそこ、なに言ってやがる」


「きゃっ!」



 柏餅の食べ掛けを片手に持って、空いているもう片方の手の爪で指差す物の怪に、太陰が後ずさる。
 因みに言っておくが、物の怪は決して太陰を指差してはいない。
 その意図を理解していても相変わらず無表情の六合は、物の怪の視線を見返した。



「気のせいだろう」


「じゃあ、なんで太陰が後ずさるんだよ」


「……お前が怖いんだろう。………違う意味で」


「なんだその間は。なんだ『違う意味』って──って、隠形するな六合。逃げんなこら!」



 そんな三人の遣り取りに、思わず笑い出す彰子と昌浩。



「……笑うことないだろう、彰子、昌浩」


「ふふふっ、ごめんなさい」


「ごめん、思わず」



 「まったく……」とぶつぶつ呟きながら、物の怪は残りの柏餅を食べ切る。
 その様子を見て、彰子が物の怪の頭を撫でる。
 物の怪は一瞬驚いたような顔で彰子の顔を見上げたが、されるがままに撫でられていた。



「お〜い」


「お〜いお〜い」


「孫〜、姫〜、式神〜」


「ん?」



 物の怪が庭の塀へ目を向けると、ぴょこぴょこと跳ねる雑鬼を数匹発見した。
 安倍邸に住まう者の許しがなければ結界を越えて入って来れない雑鬼たちは、よくこうやって飛び跳ね、彰子や昌浩に許しをもらって入り込んでくる。
 今回もその例に違わず、飛び跳ねながら昌浩や彰子、物の怪のことを呼んでいた。



「いいぞ、お前ら。入ってこい」


「わ〜い」


「やったやった」



 物の怪が声をかけると、雑鬼が三匹安倍邸の敷地内に入ってきて、昌浩と彰子の間に陣取った。
 しかし、十二神将である六合と太陰のことは、明らかに避けている。



「聞く所によると、記憶なくしたんだってなあ、孫」


「色々と化け物退治を頼んでる俺たちとしても、心配になってなあ」


「代表者を決めて、こうやって見舞いにきたってわけだよ」



 代わる代わる喋り出す雑鬼たちに、戸惑う昌浩と呆れる物の怪、微笑んでいる彰子。
 昌浩や彰子、物の怪に対して友好的に接してくる雑鬼に驚いたのは、吉昌だった。
 意味もなく忍んで夜警に出ていることは、安倍邸に住む者の皆が知っている事実だが、その夜警の中で雑鬼たちと友好を深めているとは。
 さすがの吉昌も予想できなかったらしい。



「え、えっと……」


「記憶なくしてるって本当だったんだなあ」


「いつもならここで反論してるはずだもんなあ」


「記憶をどっかに失くすなんて、相変わらず抜けてるなあ、孫」



 雑鬼たちからの雑言に、眼が座ってきた昌浩。
 不満気に口を開く。



「……なんか、無性に腹が立ってきたんですけど」


「おおっ。さすがだな」


「記憶がなくても体が覚えてるってわけだ」


「この調子ならすぐに思い出すんじゃないか? なあ、」



「「「晴明の孫!」」」



「孫言うなッ!!」



 反射的な叫び。それに、雑鬼たとのみならず、物の怪や彰子、太陰六合吉昌までもが目を丸くした。

 そんな異様な雰囲気に、昌浩は恐る恐るみんなを見回す。
 なにか、悪いことでも言ってしまったのだろうか。なにも考えてなかった一言だったが、それがいけなかったのだろうか。



「……体が覚えている……。そういうことか」



 隠形を解いた六合がそう言うと、皆一様に頷いた。
 「晴明の孫」と呼ばれるのが嫌で、いつか晴明が「昌浩の祖父」と呼ばれるようにしてやるのだと憤慨する昌浩。
 いつしか「孫」と呼ばれるのに対して「孫言うな」と言うのが昌浩の口癖のようなものに化してしまうほど。
 雑鬼たちは、どことなく嬉しそうに飛び跳ねた。



「やっぱ孫はこうでないとな!」


「記憶がなくても孫は孫だな」


「最近夜警にも来ないからつまらなかったもんなあ。なあ、式神」


「お前らは『一日一潰れ』ができないから、さぞつまらなかっただろうな」



 昌浩としては、つまるどころか迷惑なのだが。
 毎夜夜警に出る昌浩は、家に帰ろうということになると、計ったかのように大勢の雑鬼達に圧しかかれ、潰されていた。
 物の怪は不穏な気配を感じた途端に飛び退くために巻き込まれたことはないが、昌浩はいくら避けても第二陣、第三陣が押し寄せ、結局は潰される運命にある。
 毎夜の恒例行事になっていたこれがないと、雑鬼たちはつまらないらしい。

 確かに、昌浩が風邪を引き、その直後に記憶を失くしたため、最近は全く夜警に出ていなかった。
 仕事にも行っていない。この状態で仕事になど行ったら、どうなることか。
 そのことについて、現在は玄武が晴明の使いに出ているのだが。



「ってことでだ」


「夜警に出ろ、孫」


「出ん」



 雑鬼の要求に即答したのは物の怪だった。
 却下され、雑鬼は不満気な顔になる。



「なんでだよ〜、式神」


「けち〜」


「けちじゃねぇ! この状態の昌浩を外へ出せるか!」


「いいじゃんか〜。晴明が作った昌浩は詰まんないんだもんよ〜」


「そりゃそうだ。晴明が作る昌浩は完璧主義だからな」



 そう。記憶のない昌浩の代わりに、晴明は昌浩そっくりの人型を作っていた。
 その人型に玄武をつけ、昌浩と偽って仕事に向かわせているのだ。
 そして、仕事帰りに人型を急襲した所、第一、二弾所か、第三弾四弾、五弾までもが躱されてしまったのだった。



「やっぱり孫は孫じゃなきゃ孫じゃないわけで」


「孫連呼するなッ!」


「だって晴明の孫って言ったら一人しかいないもんな〜」



 「な〜」と他の二匹も続く。
 その意味を正しく理解できない昌浩は、「俺って、兄上もいるんじゃ……?」とただ首を傾げるばかりだった。










◆  ◆  ◆










 昌浩の記憶がなくなって早一週間。
 物の怪は、未だ記憶が戻らない昌浩が目を覚まして朝餉に行ったのを確認した後、屋根の上に座っていた。

 その真っ赤な瞳で、どこともなく空を眺めている。
 身動ぎ一つしなかった物の怪が、不意にぴくりとその耳をそよがせた。



「何をしている」


「それはこっちの台詞だ」



 背後からかかってきた声に振り返ると、青龍が立っていた。
 相変わらずの冷たい瞳で物の怪を射抜く。



「お前から俺の前に姿を見せるなど、珍しい」


「あの子供の元にいなくていいのか」



 青龍は物の怪の言葉に答えず、逆に問いかけた。
 抑揚に欠けた物言いだが、だからこそ、物の怪は訝しげな目を向ける。
 そして、どこか不機嫌な表情で口を開いた。



「お前には関係のないことだろう」


「怖いのか」


「…………なに?」


「あの子供が貴様を覚えていないことを突き付けられるのが、怖いのか」


「……なにが言いたい」



 物の怪の額にある模様が紅い光を宿し、炯々たる赤い眼光が青龍へ叩き付けられた。
 それを受け、青龍は「ふん」と鼻を鳴らす。



「貴様があの子供を忘れていた時は、貴様に冷たくあしらわれても、あの子供は貴様と共にいたがったそうだな。それに対し、貴様はどうだ。事実に怖れ、あの子供と共にいようとしない」


「貴様になにがわかる……」



 額の模様が一層の光を増し、物の怪は炎に包まれて変化が解かれた。
 紅蓮は怒りの籠もった金の瞳を青龍に向ける。
 そんな眼光を真っ向から受け、青龍はその冷たい瞳で紅蓮を睥睨する。



「貴様のことなどわかるものか。俺はただ、見たままの事実を言っただけだ」


「──────」


「『昌浩』『昌浩』と口にしてはいるが、結局貴様は口だけのようだな」


「貴様──!」



 激昂と共に紅蓮が炎を纏い、それに対抗するように、青龍の周囲に水が舞った。
 ……紅蓮の力が金冠によって封じられているとはいえ、青龍の神力が紅蓮の神力に通用するとは思えない。


 それでも、青龍は引くに引けなかった。

 元より引く気など毛頭無い。


 本人は認めたくないのだが、紅蓮と青龍は、同じ十二神将として安倍晴明に下った式神だ。
 晴明を気に入り、晴明に下ることをよしとした、同胞だ。

 しかしある時、紅蓮はその手で主である晴明を殺めかけ、そして一人の人間を殺した。
 その時に二度はないと、二度目があったらこの手で殺すと、青龍は、自らと晴明に誓った。
 そして遠くない過去、紅蓮は昌浩を殺めかけた。二度とも紅蓮の意識化のものではなかったが、青龍は許すことができなかった。


 しかし、その二度とも、青龍が紅蓮を殺すことはできなかった。


 一度は紅蓮の弱った神力と相打ちとなり、紅蓮を責めることは晴明によって固く禁じられた。

 二度目は昌浩が紅蓮に剣を突き立て、紅蓮の辛く赤い記憶を封じて紅蓮の命を甦らせた。


 青龍は、晴明と昌浩に紅蓮を殺す事を禁じられたのだ。


 況して昌浩は、その命も惜しまず紅蓮を生き返らせた。


 紅蓮と昌浩の立場が逆だったなら、やはり紅蓮も昌浩と同じことをしただろう。
 そんな風に言い切れるほどに深い絆を目の当たりにし、青龍は紅蓮を殺すという誓いを果たすことができなくなった。


 認めるしかなかった。


 紅蓮と昌浩の関係。

 絆。

 想い。


 それなのに、それなのに紅蓮は今、昌浩が全てを忘れたという現実から目を背けている。
 紅蓮が昌浩のことを記憶から消し去っていたあの時。勾陣や太陰、玄武、白虎が晴明に状況を伝えにくるのを、青龍は傍らで聞いていた。
 その話からすると、昌浩は紅蓮が自分を覚えていないにもかかわらず、皆の前で泣くこともなく、『紅蓮』という名を封じ、懸命に笑顔を見せていたらしい。

 それなのに。

 青龍には、もう我慢が利かなかった。
 ここにくることことは、晴明にすら告げていない。叱られるのは覚悟の上。……もしかしたら、紅蓮が暴走して殺されることすら覚悟の上だった。



「青龍、騰蛇。何をしている」


「勾……」



 不穏で強大な神気を感じ取ったのか、勾陣までもが屋根に上がってきていた。
 迷惑そうに眉を顰め、二人を見ている。



「つい先刻、太陰が偶然お前達の姿を見付け、怯えているところだ。なにが原因かは知らんが、早々に止めることだな」



 勾陣は十二神将内で紅蓮に次ぐ強大さを誇る神気を抑えようともせず、二人を睨め付ける。
 しかしそれでも、二人の凄惨な神気は治まりを見せなかった。
 逆に二人の神気はその勢いを増す。
 ……というよりも、勾陣が現れることで多少なり治まった紅蓮の神気が、青龍の神気増大によって刺激されたと言ったほうがいいのかもしれない。



「……青龍。お前、騰蛇に敵うと思っているのか?」


「関係ない。ただ俺は、こいつが許せんだけだ」



 勾陣をまともに見ることもなく、紅蓮を睨む青龍。
 正に激突は避けられまいと思った、その時。



「紅蓮。宵藍。……なにをしている」



 なによりも響くその声に、紅蓮と青龍はビクリとその肩を震わせた。
 騰蛇と青龍の二人を紅蓮と宵藍と呼べるのは、世界中にもたった一人しかいない。

 それは、騰蛇と青龍に形無き至宝を与えた本人。十二神将が主、安倍晴明。

 屋根の上にいたのは、最も力が強かった二十歳前後の晴明──。離魂の術を駆使して現れた晴明だった。
 太陰から不穏な二人の話を聞き、六合、朱雀、天一の三名を体の方へ残してやってきたのだ。
 いざという時、徐々に衰えてきている実体ではどうにもならないかもしれない。
 晴明の傍らには、太陰と玄武の姿もあった。



「せ、晴明……」


「何をしているのかと訊いている」



 淡々とした問い。だが、そこに秘められた感情は静かなる怒り。
 晴明の怒りの恐ろしさを十二分に理解する紅蓮と青龍は、その神気を一気に静め、身はわずかに引いていた。



「十二神将間での闘争は許さないと、私はいつだかそう言った覚えがある。お前たちはそれを忘れたのか?」



 紅蓮と青龍はぐっと詰まった。

 晴明からの命令を、忘れるわけがない。
 「出来れば『お願い』したいのだが……」そう言った晴明に、「『お願い』では聞かん奴もいるからな」と勾陣が指摘した時。
 渋々命令した晴明のあの表情は、今でも鮮明に思い出せる。

 だが、どうしようもない感情が、その命令を違わせようとしていたのだ。
 死すら覚悟して。



「…………紅蓮、宵藍。……次は無いぞ」


「………………」


「………………」



 晴明の静かな眼光に射抜かれ、二人は黙るより他なかった。



「紅蓮。昌浩の朝餉も終わる。早く行ってやれ」


「………………」



 紅蓮は物の怪へ変化して、四本足で屋根を蹴った。
 そして屋根を降りる直前、わずかに青龍を振り返る。



「…………青龍よ。…………お前の言ったこと、確かに正しい……」



 そう呟くように吐き捨て、屋根の下へ降りて行った。

 青龍は僅かに瞠った後、いつもの冷たい表情に戻る。
 そして一度晴明を見やり、姿を消してしまう。

 そんな二人に、晴明は「ふぅ」と嘆息した。




















「…………昌浩」


「あ、もっくん……。どこに行ったのかと、思った」



 朝餉を終えて自室に帰ってきた昌浩に声をかけると、昌浩は悲しげな、今にも泣きそうな笑みを向けてきた。
 初めて見る表情に、物の怪は訝しげに首を傾げる。



「なぜだ?」


「……夢、見たんだ」


「夢?」



 問い返すと、昌浩は「うん」と頷く。



「必死に誰かを呼んでるんだ。誰かは分からないけど、多分俺の大切な人。……でも、いくら呼んでも振り向いてくれない。いくら追いかけても追いつけない。俺が大切だと想っている誰かは、みんな俺のところから去って行くんだ……」



 その夢は、いつだか昌浩に聞いたことがある。

 紅蓮が屍鬼に体を乗っ取られる前に見た夢。
 紅蓮の記憶を封じて以来頻繁に見ていた夢。

 物の怪を探して彷徨って、やっと見つけたと思ったら逃げていく。
 焦燥感が大きくなり「紅蓮」と呼べば、その瞳は冷たく凍り付いたようで、「その名で呼ぶな」と吐き捨てられた。

 痛々しい、息苦しい、悲しすぎる夢。

 また昌浩はそんな夢を見ているのか。俺はここにいるというのに。
 お前が捜していた俺は、今ここでこうして存在しているというのに。

 俺はここにいる。だからそんな夢を見る必要は無い。


 それなのに……、なのになぜ。



「……よく、わかんないけど、全部忘れていたあの日も、同じような夢を見てたような気がする……」



 それは────。


 もしもその夢が、過去に見た夢と同じ物だったのだとしたら。
 夢の中で、呼んでも呼んでも答えてくれない何かは物の怪であり、紅蓮なのだとしたら。

 目が覚めた時、物の怪は晴明の部屋にいて、昌浩に近くにいなかった。

 その時、夢と現実が同じ物として昌浩の中に認識されてしまったのだとしたら。
 昌浩は全て忘れることで、いつ切れるかもわからない絆を白紙に戻そうとしていたのだとしたら。
 これ以上傷付かないために起こした、昌浩の無意識下にある防衛本能だったのだとしたら。


 そうなのだとしたら、悪いのは────。



「…………すまない……」


「え?」


「すまない……。すまなかった、昌浩……」


「なんでで? どうしてもっくんが謝るの……?」


「もっくんじゃ……、ない」



 額の模様が輝き、物の怪は変化を解く。
 記憶を無くしてから初めて見る紅蓮の姿に呆けた昌浩を、紅蓮はしっかりと抱き寄せる。



「あ……、えっ?」


「……俺はここにいる。……お前の側に、ずっといる……」


「………………」


「二度とお前を一人にさせない……。もう忘れない。もう怖れない。……お前が捜さなくてもいいように、ずっと、ずっとお前の側に居る。だから……、だから昌浩……」


「………………」





 ────いってぇなぁ



 なんの声?



 ────見せもんじゃねぇぞ



 聞いたことがある声。不機嫌そうで高く、調子に乗った声。



 ────お前、俺の目にならない?



 それは口にしたことのある言葉。

 物の怪に『見鬼』の代理を頼むなんて前代未聞だと、その後で突っ込まれた。

 誰に? 物の怪に? そうだが──、違う。



 ────まーさっ、ひーろっ。まーさひーろくんっ



 木の上からぼとりと落ちてきた。奇妙に愛嬌のある、常識外れの人懐こい物の怪。



 ────偉大な晴明の孫



 「孫言うな」と返す度、楽しそうに笑っていた。



 ────名前って言うのは、ちゃんと意味のあるものだ。不用意には名乗れない



 名乗れと言った自分に、やけに神妙な口振りでそう言った。



 ────俺がお前に、死なれたら困るんだ



 死にそうな状況で、その笑顔を向けてくれた。



 ────その言葉、もらった



 目標は誰も犠牲にしない人生で最高峰の陰陽師だと言ったら、不敵な笑みをにやりと浮かべた。

 そして、今までの調子付いた声色ではなく、どこか嬉しげな声で言った。



 ────俺の唯一無二の至宝を……、ただ一人を除いては、他の誰にも許さない名を教えてやる



 絶体絶命の危機にも拘らず、彼は笑っていた。



 ────お前に、俺の名を呼ぶ権利をやろう……



 なぜか誇らしげで気高く、妙にそれが似合っていた。



 ────いいから呼べ、俺が許す、お前には!



 こんな時になにを言っているのかと、叫べばそう答えが返ってきた。



 ────いいか、俺の名は……



 そうだ。彼の名を教えてもらった。

 昌浩よりも前にその名を呼ぶ事を許された者が授けた、形無き至宝。

 その身に纏う炎は、まるで水面に咲き誇る紅の蓮のようだと。


 そう言って。


 この名を呼べるのは世界中でただ二人。

 名付け親である晴明と、唯一晴明の孫の器を持つ昌浩……。


 気高く誇り高い、とても温かくて優しい心を持っている彼。



 彼の名前は────





「────ぐれ……ん……」


「…………昌浩……?」


「紅蓮……。ごめん……、紅蓮……」



 抱き寄せていた体を離すと、昌浩の目からは涙が零れ落ちていた。

 思い出した。全部思い出した。

 忘れられた悲しみは、誰よりもよく知っているのに。
 それなのに、大切な人達に同じ思いをさせてしまった。

 誰よりも紅蓮に、痛い思いをさせてしまった。



「思い出した……、のか?」



 紅蓮の問いに、小さく頷く。
 その瞬間、昌浩は再び紅蓮に掻き抱かれていた。



「よかった……。よかった、昌浩……!」


「ごめ……、ごめん……」


「なぜ謝る。お前はなにも悪くない。悪かったのは、お前のそばにいなかった俺だ……」



 それを聞き、懸命に首を横に振る昌浩に、紅蓮は苦笑する。



「誰よりも、お前の側にいなければならなかったのに……。すまなかった、昌浩……」


「っ…………」










◆  ◆  ◆










 斯くして、昌浩の記憶は元あるべき場所へ戻った。

 この後、それを知った彰子や吉昌、露樹、一部を除いた十二神将達が喜んだ。

 晴明はその嬉しさを文にしたため、式として昌浩に送ったが、それはまた別の話。

 そして、晴明の式を受け取った昌浩がいつも通り恒例の言葉を叫んだのも。



 また、微笑ましい日常のひとコマ。
















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